対話の場、敬意を払う場としての葬儀

葬儀とは亡くなった人との対話だ、とどこかで聞いた覚えがあります。確かにそうかもしれません。宗教的な観念は置いておくとして、棺を前にしながら、参列者で死者の思い出話をする。一人の人間に対して今まで関わりのあった人たちがそれぞれに思い出を話すことは、それは亡くなった人への感謝でもあるし、また名残おしさでもあるのでしょう。私が今までに参列した葬儀は4件。30歳にしてこの数が多いのか少ないのかは分かりませんが、その4件の葬儀の中でいろいろなことを学びましたし、また複雑な気持ちを経験してきました。初めて葬儀にのぞんだのはもうずいぶんと前。

まだ小学生の頃だったと思いますが、曾祖母の葬儀が初めでした。面識はあったものの、あまり悲しいという気持ちはせず、しかし周りの大人たちのいつもとは違う雰囲気にどこか居心地の悪さを感じていました。普段は勝気な祖母が泣いていたり、またそれを他の親族が慰めている。父は父で、私に火葬場から上がる煙を見せながら、しみじみ人生を語る。そういった風景や言葉にどんな意味を求めればいいのか分からない年頃でしたが、今となってはすべて私の人生に反映されている経験だと思います。人の死から学ぶということは不謹慎でありながら、だけどそこからしか学べないこともたくさんあるのだろうと思います。それは中学生時代、そして高校生時代に二人の友人を亡くした時に初めてしみじみと心を打ちました。一方は交通事故、一方は病気。そのときの悲しさは今でも忘れません。大事な人が亡くなるとはこういうことなのだと実感しました。

どちらの葬儀の後も、共通の友人が集まって彼らの思い出話をする。実にいろいろな話が出てきます。あのときはどうだったとか、一緒に何何をしたとか、欠点もいいところも、そんな話が次から次へと出てくる。だけど、一人の人間の人生を語りつくすことなんてできないわけです。それだけの重みが人の死にはあるのだろうと思います。そして最後に経験した葬儀が祖父。昔よりずいぶんかわいがってもらった祖父です。やはり葬儀の後は親族が集まって祖父の思い出話をする。祖父の兄弟姉妹の方と話をすると、私の知らなかった祖父の一面がたくさんでてきたものです。身近な存在でありながら、だけどこれだけ知らない面がある。それは祖父の兄弟姉妹もそうかもしれません。私と祖父の共通の思い出は私たちのものだったわけですから。そうやって思い出話を寄せ合って、私たちは初めて祖父という人間の全体像を知るのかもしれませんね。そして死者の人生に敬意を払う。葬儀とは、そういうものだと思います。

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